春巻と杏仁豆腐

歌集を中心に読んだ本の感想など。

猫を抱きながら

堀田季何『惑亂』(書肆侃々房 2015)

 

銀河てふ環の斷面を環の中の星より觀たり銀河人われ(p96)

 

 アルバムをめくる指は立ち止まる。そこには夢に遊び、少しユーモラスで、博識の天使の表情で、時に宇宙的スケールの思考をする、ひとりの人間がいる。この歌集を読むとそういう感覚になる。
「惑亂」という言葉の辞書的な意味は、「冷静な判断力を失うほどに心がまどいみだれること」であり、この歌集にみてとれるのは病とともにあった時間だろうか。とは言うものの、自己憐憫や病気自慢という歌はない。生きる時間のリアリティ、まさにアルバムのページをめくるように、「われ」に触れることができる。あとがきの「私性に主眼を置いたため」という歌集の編まれかた、正字で詠まれた歌に一首ずつの記憶のつながりと美が世界を構成している一冊と思う。正字で詠むことは、短歌の多様性を伝えることでもあると思うし、この歌集は正字であるからこそ魅力的なのだ。

 

熱ありて白河夜船を漕ぎゆけば沈没前の朝のひかり(p15)
キリストと夢の階層旅すれば無人島には一羽のかもめ (p13)

 

現実の苦から解かれる場所が夢であり、その夢のなかには無意識に望むものがあらわれると思う。

 

啼く猫と啼かぬ猫ありまづ餌を啼かぬ波斯猫のヤマモトにやる(p36)
象よりも燃費四倍よきものに河馬あり河馬を月賦にて買ふ(p60)

 

惑亂の日々のなかで保たれるユーモアにも惹かれる。啼く猫に先に餌をやるひともいるというのに、このひとは啼かないほうに餌をやるのである(声高に主張しない方を先に、ということ?)、そういう日常の微かな習慣にユーモアが宿る。象も河馬も月賦で買う人は…あんまりいないけれど、読めば買った気になれる。不思議なユーモアの歌の力。

 

ソルジェニーツィン少し知るため五日閒『イワン・デニーソヴィッチの一日』を讀む(p51)
バイヤートの譯本を手にたそがれの水邊の鳥へ語りはじめぬ(p112)

 

衒学的であるという印象よりも、その一首から読者に世界を知るきっかけを与えてくれる歌と思う。歌集をひとたび読み終えて、すっかり満足するというより、またどこかのページに戻っては世界に浸りたい、そういう読むことの喜びがある。知るほどに、世界は深い。

 

ぬばたまの黑醋醋豚を切り分けて闇さらに濃く一家團欒(p9)
透明にほどとほき吾が涙かなハンカチの色濃くなりまさる(p43)
人閒をやめよと言はれあつさりと辭めたる晩はそよぐほかなく(p44)
中年がしつこいままに老いてゆくそんなソースの染みになりたい(p75)

 

 これらの歌には特に一人の人間のリアリティがある。それゆえ、読者の私は、その一首に生きている「われ」に出会える、と感じる。
どうしたって、懐かしい。そういう気持ちになるし、そして「ソースの染みに」なった歌も読んでみたいし、出会ってみたい。

 

 

 

惑亂 (新鋭短歌シリーズ)

惑亂 (新鋭短歌シリーズ)

 

 

  


余談メモ(書き終えてメモ)
 少し駆け足で紹介した形になったのが心配だけれど、ともかく歌集を読めば魅力的な歌たちだとわかる。この歌集と出会ったのは、いつものように中崎町の葉ね文庫さんに行ったところ「さっきまで堀田季何さんがいらっしゃっていたよ」と店主さんに言われ、そのときは歌集を買って帰らず(!)・・・だけどなんだかとても『惑亂』が気になって次の日に購入。思いがけず出会った一冊。読むと懐かしくて友だちになりたくなる、「私性」が感じられる歌集。