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春巻と杏仁豆腐

歌集を中心に読んだ本の感想など。

夕照とゆくへ

黒瀬珂瀾『蓮喰ひ人の日記』短歌研究社(2015)

 

明日へわれらを送る時間の手を想ふ寝台に児をそつと降ろせば(p115)

 

第三歌集。イギリス滞在中13ケ月の歌。長女の誕生、多民族が集う土地での子育て。その間、東日本大震災、暴動が起きる。各歌に詞書。ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』も連関。

 

歌集冒頭には、次の一首。

 

赤き薔薇ささげて待てる青年を過りて我ら旅のはじまり(p8)

 

この歌の「青年」とは、実体としての青年ではなく過去の喩ではないだろうか。この旅は、青年期を通過して次の段階へ漕ぎ出していく歌集と思う。イギリスへの旅であるとともに、父になる旅、ひとつの家族の航路を読者は目撃する。

 

水鳥が水発つごとき羽ばたきの鼓動打つ児よ妻の胎より(p31)

妻と嬰児は夏のひかりを分けあひて真白き部屋に尿(pee)の香は顕つ(p79)

ドレッド揺らし巨軀かがめおまへを運びくれたのだ児よ黒き手をしかと見つめよ(p107)

 

作者と世界との位置について考えてみると、第一歌集『黒耀宮』では「The world is mineとひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に」(p19)と、世界は掌握すべきものとして自身の「外」にあった世界である。第二歌集『空庭』では「死がこはい世界がこはい水のない海へと歩む僕の魂」(p139)と、世界に触れつつ「境界」に作者は立ち、おそれるべきものとしての世界であった。第三歌集『蓮喰ひ人の日記』では、その世界に帆を張る舟として作者は進んでいくようである。世界の「内」に辿りつき、進むように。そこには、父となること、家族となることの自己規定の安堵や生の肯定があるのではないか。

 

夫婦から家族へと旅するわれら乗せむと木馬冬を旅せり(p168)

妻と児があれば吾など誰でもいいひかりを諾ひ生きゆかむかな(p213)

 

 滞在中、日本では東日本大震災が起きた。

「3/15 MELTDOWNの大見出し。Japan Disasterを語る声。」という詞書とともに、

遠いのだ、この夕照は わが道にカモメ暫く沿ひて逸れゆく(p22)

 

留学中に関東大震災の報を聞いた斉藤茂吉のことも思い出されるのだが、この一首を読む時、作者が3月14日付の砂子屋書房HP「一首鑑賞 日々のクオリア」に執筆の、山崎方代の歌とのつながりを思う。「こんなにも赤いものかと昇る日を両手に受けて嗅いでみた」(山崎方代『こほろぎ』)を挙げ、「すべての命と向き合う歌が、読者の心に灯りをともす。どんな時でも毎日、朝日は必ず、変わることなく私たちを訪れる。」と作者が言及していることも書き留めておきたい。一首に詠まれている「夕照」に生命の重みを感じる。昇る日が夕照となるまでの距離と時間について思い、それは「遠いのだ」と生命を受け止めながらも畏怖ともとれる不可思議な感触を味わうことになる。

 

そして、私たちは、さらなる旅を目撃するのだろう。

 

夢を見て生くるは罪か 白きカモメ真白き崖に溶けゆく朝を(p118)

死ののちも旅つづくかなバースの水買ひてさびしゑ吾もわが師も(p173)

わが次の港の雨を思ひをり鶉の骨噛みくだきつつ(p204)※鶉(クウェイル)

 

 

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